こんにちは。sameshimaです。
例年になく大きな春の嵐も過ぎ、麗らかな春の日差しに満ちている鹿児島ですが、
皆様いかがお過ごしでしょうか。
本日は、3月24日(日)に開催いたしました、
鹿児島哲学カフェ × gardens’ Cinemaシネマ哲学カフェ『エンディングノート』
の報告をさせていただきます。
☆イベント詳細につきましては、こちらの 鹿児島哲学カフェ × gardens’ Cinema シネマ哲学カフェ『エンディングノート』 をご覧ください☆
2009年、東京。熱血営業マンとして高度経済成長期に会社を支え駆け抜けた「段取り命」のサラリーマン・砂田知昭は、67歳で40年以上勤めた会社を退職、第二の人生を歩み始めた矢先、毎年受けていた健康診断でガンが発覚する。すでにステージ4まで進んでおり、残される家族のため、そして人生の総括のため、彼が最後のプロジェクトとして課したのは「自らの死の段取り」と、その集大成ともいえる“エンディングノート”の作成だった。やがてガン発覚から半年後、急に訪れた最期。果たして彼は人生最大の一大プロジェクトを無事に成し遂げることができたのか。そして残された家族は……。
鹿児島哲学カフェにとって、二回目のシネマ哲学カフェとなりました(一回目はこちら)。
毎度お馴染み、noseさんがファシリテーターとなって、まずはシネマ哲学カフェの簡単なルール説明を。
※noseさんお手製ルールカード、なかなかいい味出してます!ご注目。笑
ということで、さあ、ここから哲学カフェの時間。
はじめに、映画『エンディングノート』の感想を皆さんに話していただきました。
【感想(抜粋)】
・死の段取りをして死んでいけるのは幸福なんじゃないでしょうか(男性)
・改宗、教会での葬式など、計算高い部分が素敵だと思いましたね(男性)
・この映画の監督は、主人公の娘さん(先日、平成23年度芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞された砂田麻美監督)。実際には、主人公である砂田知昭さんの胸中と、映画としての『エンディングノート』は当然ながら異なるはずですよね。その点が、映画ファンとしては複雑でもありますね・・・(男性)
・主人公の死は恵まれた死だと思うんですよ。なので、自分としてはこの映画を『“ハッピー”エンディングノート』としたいくらいですね(女性)
※たまたま性別を記していましたので、そのまま表記させていただきました
死は、万人に平等に訪れるもの。
映画の中で主人公は、自分自身の大体の死期を知り、どのようなエンディングを迎えたいのかを明確に意図し、かつ、その計画をほぼ完遂して旅立ちました。
その点において、この『エンディングノート』は、「幸せなエンディング」ではないか、ということで皆さん大体意見が一致しました。
では、「幸せな死」とはなんなのでしょう?
死には、死に際してその当人による準備が可能である死と、準備のできない突発的な死があります。
しかし、そもそも死は備えるべきものなのでしょうか。
ここからは、「幸せな死とはなにか」、対話をしていきました。
・まずは3日以内に見つかりたいなあ・・・オレ、その時には生きてないけど(笑)
・その時々にまずは目を向けて生きる、それが幸せな死に繋がるんじゃないかな
・準備するしないというか、今までの生き方を続けていけばいいんじゃないですかね
・生き方が、死に、反映されるように思うんです
・やっぱり、自分で納得いく生が送れるのが一番じゃないですかね。精一杯やっていれば悔いも残らないって思うんです。心穏やかにいられる気がする。
・でも、なんていうか、精一杯生きないと幸せじゃないんですかね?
・整然とした死でないといけないんでしょうか。孤独死だって、それを望んでいる人もいるとおもうんですよ。だめなんですかね?
・というか、そもそも生も死もオーバーに考えすぎじゃないでしょうか?
・でも、昨年の震災も経て、生も死も、ひろく人々の話題にのぼるようになったこと、考えられるようになったことは好ましいと思いますよ。生も死も悪いことではなく「あたりまえ」のことだと話し合えるようになった、というかね
・そういえば、今、生も死も病院で迎えることが多く、どこか人任せな部分がありますよね。そういった部分も大切な視点かもしれませんね
「良い死」。
そもそも「良い死」というものはあるのでしょうか?
「良い死」が「ある」ということを、無意識のうちに大前提として共有しているのでは?
という疑問が、対話の中で生まれてきました。
そして話題はいつしか「エンディングノート」自体へ。
・エンディングノートを残すとして、「自分をこう見送って欲しい」という明示がされているのは、残された家族を助けてくれると思うんですよ。父の愛、というか。
・そうですね。家族側から見て、「もっとこうしてあげればよかったかも」という後悔が軽減されるかもしれませんね
・エンディングノートって、残される者へのメッセージでもあるんじゃないでしょうか。気持ちを整理して伝える、というか
※みなさん、考えてますネ・・・
濃い対話の時間は、あっという間に過ぎてまいります。
気付けば、あと20分!
ということで、最後の対話は「あなたは、死がこわいですか?」という問いかけから。
・こわいというか、嫌ですね。今のこの時間も、生きているから味わえる。それがなくなるというのは、嫌ですね
・うーん、でも、いつかは行くんだろうな・・・
・でも、私、わくわくもするんですよ(笑)
・やっぱり、死と生は対極だと思うんですけど、死を思うことで思い切り生きられるような気がします。そういう意味では死をみつめたくはあるんです
・いやいや、僕、こわいですよ!生まれてくることすら自分では選択できなくて、こわいのに!(笑)
・死がある、ってのは、いいことなんじゃないですかね。死があるから、「あ、これをやっとかなきゃ」ってのがありますからね
・そう思うと、小さいころから死生観を持って生きるのは大事なんじゃないですかね
・自分はだんだんとこわくなってきました。やっぱり、年齢的にだんだんね・・・(笑)
・自分はですね、エンディングノートみたいなものを買ってみたんですよ。でもね、なかなか書けるもんじゃない!(笑)
・遺書とか遺言状っていうのは「あそび」の部分がないですよね、でもエンディングノートなら書きたいようにかけるというのはいいですね!
・あとに残る人たちに、迷惑はかけないように、「あとしまつ」の意味をこめて書きたいというのは、ありますね。死後も世界は続くわけですから、スムーズに流れて欲しいですものね
熱く真剣な対話の中、皆さん笑いをまじえつつ、ユーモラスな対話が進みました。
そのことに、とても感動しました。
「死」は、大きく、またもっともセンシティブなテーマの一つ。
私自身、『エンディングノート』の上映中は半分以上涙を流したほど、深く心揺さぶれられました。
おそらく今回のシネマ哲学カフェに参加されたほとんど全員が、多かれ少なかれ、涙を流されただろうと思うのです。
参加者の皆さんの数だけ、さまざまな「死への思い」があったことでしょう。
もちろん各自の信仰も含めて、さまざまなバックボーンがあったことでしょう。
それにもかかわらず、あるいはそのせいなのか、この時間には不思議な明るさがあったんですね。
ひらかれた、率直な対話、といえばいいのでしょうか。
また、「僕はですね、自分の葬式でのスピーチを考えてるんですよ」という方もおふたり。
個人的には共感するものがありました。
そこで、何を伝えようと思うのか。
そう、思いを馳せてみるのは、興味深いことではないでしょうか。
マルヤガーデンズ7F、陽光あふれるオープンガーデン。
さまざまな素敵なイベントがひらかれるこの場所での、2度目のシネマ哲学カフェは、そんな時間となりました。
終了後はいつになく、皆さん、長居をされていらっしゃいました。
多くの方が、どこか立ち去りがたいようなご様子にも見受けられました。
思えば、死は、皆等しくあたりまえに訪れるものであるのに、
それを語り合うことは少ないように思います。
どんなに愛していても、大事に思っていても、必ずやってくる死。
死を思うときに見えてくるものというのは、確かに、あるような気がしました。
こうして記していて、しぜんと、深い思いが湧いてきて、
なぜかすべての人々に感謝したくなります。
このシネマ哲学カフェは、鹿児島哲学カフェの1年目をしめくくるイベントとなりました。
皆様、1年間、誠にありがとうございました。
最後になりますが・・・
ガーデンズシネマさま、
マルヤガーデンズさま、
参加者のみなさま。
今回も良い時間をご一緒させていただきました。
本当に、ありがとうございました!