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【開催報告】現代は希望を見いだしにくい時代なのか?

梅雨明けも間もなく・・・という空気の漂う7月となりました。sameshimaです。

早いもので2012年も後半に入りましたね。
南国らしい濃い色の空にもくもくとした雲が映えて、
太陽が眩しい季節となってまいりました。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さて本日は、第12回鹿児島哲学カフェのご報告です。
【第12回鹿児島哲学カフェ】

日時:6月29日(金) 19:30~21:00
場所:コワーキングスペース301
(鹿児島市中央町14-9 三森ビル3階 オンドデザイン内)
テーマ:現代は希望を見いだしにくい時代なのか?
参加者数:16人(男女比8:8)

「そもそも、“希望”って、“見い出す”ものなのでしょうか?」
そんな参加者さんの言葉からこの日の哲学カフェははじまりました。

・「見出しにくい」・・・「持つ」とどう違うのだろう?
「持つ」は、過去のイメージ。「見いだす」は、これから、というイメージ?
・そもそも、「夢」と「希望」は違う?
・というか、「希望」は誰にとってのもの?
・「希望」と「絶望」は反対という感じがしています。「絶望」があるから「希望」があるのでは
・「希望」とは、まず明確なゴール設定ができて、そのゴールに向かって思うものだと思います
昔って、ゴールを見いだしやすかったんでしょうね

多くの方が、そもそもこのテーマ自体の妥当性について考えていらっしゃるご様子でした。
個人的には「希望」は「見いだす」ものだと感じていたこともあり、
スタッフ間でテーマ設定について話し合ったとき、お互い大きな違和感はなく決めたように記憶していましたが、
このテーマそのものに根源的な問いがあることに、カフェの時間を通してあらためて気づかされました。

 

ここである参加者さんが、
「自分が期待したものが何回も覆されると、ゴールを見いだしにくくなる」と発言。
これは面白いな、と感じました。
「期待」と「希望」のからみあい。
なにかが隠れているような気がします。

・宮崎駿さんのツイート「大人が楽しくなさそうなのに、子供に『希望』~『憧れ』~を持てと言っても無理」
・「希望」とは「遠い」もの。「希望」までの過程の方法論が見いだしにくいのでは
・そもそも「時代」という言葉にも疑念がある。
定型的な「希望」とかがあるとしたら、それは国とか、そういったものが提示するものなのか?
・小さい「希望」と大きい「希望」があるように感じる・・・
たとえば「喉が渇いているときに、お茶が手に入りそう、というのは希望に似ている気がする。
また、疲れているときや暑いとき、帰宅してシャワーを浴びることを想像しただけで希望が沸く気がする。
でもきっと、「希望」はそういうものよりもっと大きいものなのかな?
・自分の人生がかかっているもの・・・たとえば若者にとっての進学・就職・自己実現・結婚・・・これらは「希望」なんでしょうか?
今と昔の「希望」を考えてみたとき、昔と異なっているのは、社会の枠組みがなんとなくわかってしまうことなんですよね。ここまではできそう、これはできなさそう、とか・・・

そしてここでこんな意見も。
「近年自殺者が増加している。これについてはどう思われますか?」

・仕組み、制度、システムが追いつめているのでは。見て見ぬふりをすることが多いし、根源的な疑問を抱きそうになっても、だいたいがやり過ごしている
・お金を使って教育を受けてきているから、もとを取り戻そうとしているだけだと感じます。教育の現場では。親も子も視野狭窄なんですが、気づいていないんですよね
・そもそも、希望を見いだせないから自殺だなんて・・・このテーマ自体が、ナマケモノのいいわけにしか感じられません

 

ここで一息。
「希望」についてあらためて考えてみました。

・同じ時代を生きていても、「希望」を実現できている人と実現できていない人がいるのは・・・?
・もともといろんな種類の希望があった。例えばマスコミで社説などを書いている、論調を作っている世代は高度経済成長・バブルにどっぷり漬かっている世代
・自分は20代だが、年配の経営者さんとお酒をご一緒することがあると、きまって「○○ちゃん、なんかバーンとやりなさいよ!おじさんがドーンとお金を出してやるから」と言っていただく。おそらく彼らはその「バーン」とか「ドーン」を経験してきたんだろうから、純粋にすごいなあ・・・と尊敬しているのだが、でもその「バーン」とか「ドーン」っていう感覚が自分にはわからない
・そういう時代はもうこないのかもしれないね・・・
・「希望」そのものの形が変わった気がする。「末広がり」ではなく、かといってピラミッドを作るようなヒエラルキーを目指すものでもなく、一階建ての広い家を造るような形に変わった気がします。あくまでイメージですが、継続的、というより、バベルの塔、というより、居心地の良い球形、になったと・・・

さて、あっと言う間の75分。
「あと15分となりました。
言い足りなかったこと、これだけは言っておきたい!ということはないですか?」
noseさんのそんな問いかけに皆さん笑いながら、最後の15分に入ります。

・今の時代は、どうも、「生き急がされている」感覚があるんです。若いころに「モラトリアム」という言葉が流行り「間延びする」時代がくるという予想をしていたのですがね
・その流れは経済の尺度で作られてしまっているのでしょうね
・私は今日の話を通して「希望」と「目標」と「欲望」が混在しているように感じました。自分は病気で片目を失明し、もう片方も視力がかなり弱っているのですが、仕事をすることができる。人の表情が見える。医者にはそんなことは信じられないと言われるのですが、自分はそれが「希望」だと思っています
・自分の娘や孫が「希望」であると思うようになった
・例えば、体が弱ったとき、手すりがあることが希望だったりする。その手すりに手を伸ばすこと・・・手すりを「持つ」でも「見いだす」でもよいのですが、それを「努力」というのでしょうか?
・希望は与えられるものだと思ったことがあるんです。海を見つめていたら、希望をもらえた感覚があった
・受動的な「希望」と能動的な「希望」があるのかもしれませんね
・これまでいろいろ話してきて・・・たぶん、「絶望」感、「希望」感・・・これは時代によってかならず違いがあったはずだと思いました
・「希望」を持てた人間が勝ち組なのかもしれませんね
・何気ない「日常」が「希望」になるという経験をしたことがあります。交通事故に遭ったことがあって、車が大破して・・・その翌朝、ただ「目が覚めた」ことで世界がものすごく美しく見えたんです。「希望」って、ある時気づいて、つかみ取るものなのかもしれません
・「希望」はきっと、見える人も見えない人もいるのでしょうね
・三笠宮さまのことが頭に浮かびます。壮絶な手術を重ねられた彼が「この世は生きるに値する」と仰っていたのが自分にとってはひとつの希望です
・「あきらめない」こと、大切なのかもしれませんね

濃い、時間となりました・・・。
参加者のみなさま、ありがとうございました。
次回の哲学カフェは7月27日(金) 19:30~21:00(予定)。
梅雨も明け、気持ちの良い晩となりそうですね!

みなさまのお越しをお待ちしております。

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