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【開催報告】いい人って、なに?(通常開催)

みなさま、こんにちは。
寒くなりましたね。いかがお過ごしでしょうか?
全国的に寒波が到来・・・北海道では停電が続いているようですね。

鹿児島も晩秋から一気に冬モード。
私事ですが、先日行ってまいりました「志の輔らくご」で、立川志の輔師匠が「鹿児島も寒いですねえ・・・東京より寒いよ!」と仰っておられましたが、どうもそうだったようですね。

 

さて本日は、去る24日に開催いたしました第17回鹿児島哲学カフェの開催報告をさせていただきます。
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【第17回 鹿児島哲学カフェ】

日時:11月22日(木) 19:30~21:00
場所:Cafe+Bar+Book 泡沫(鹿児島市東千石町6-6 南竹ビル101)
テーマ:「いい人って、なに?」
参加者数:10名(男女比 4:6)

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いつものようにnoseさんの説明からはじまります

 


「いい人の話をしていたら、丁度目の前にこんな本が!」
まずは、「あなたは、どんな人のことをいい人だと思いますか?」という導入から。

・大多数の人が「悪い人」と思わない人は「いい人」なのでは?
・「調子がいい人」、「誰にとってもいい人」、「どうでもいい人」・・・みんなにとっての「誰にでもいい人」は、実は「いい人」ではないと思うんですよね
・一般的に「いい人なんだよね~」と言われるところの「いい人」は、「いい人」だと思います
・話をしていて、相手が自分に合わせてくれていると感じるとき、あるいは、この人私に気を遣ってくれているなと感じられるとき、嬉しさは確かにあるものの、どこか「いい人なんだけど残念」と感じることがある
・僕は以前、「あなたは、いい人なんだけど・・・」で振られたことがあるんですよ。それって、どういう意味なんでしょう?可もなく不可もなく、という意味なのかな?!(お二人の方から似た体験談が^^)
・でも、「いい人」って言葉、男性同士も使います?僕はあまり同性に対しては使わないんですよねぇ
・自分は「まっすぐな人」「裏なく人と接することができる人」をいい人だと感じるので、そういう人には同性であっても「いい人」という表現をしますよ~
・うーん、「いい人」って、「害はないけど魅力もない人」な気がします・・・

 

そんな恐るべき意見(笑)が出たところで、

「一般的ないい人 と、女の子から男の子へ使ういい人(笑) は違うんでしょうね~
そして、善い人 と 良い人 は、実は対極ではないか、という気がしてきました」とnoseさん。

・私は、中学時代から比較的どんな人とも仲良くできる女の子で、例えば授業でスポーツのチーム編成などをする時にはどのチームにでも入れたんです。それって他人から見ると「どんな形にも変容可能な、便利のいい人」だったんじゃないかなって
・自分にとっては「説を曲げない、揺るがせない人」のイメージは神父さんなんです。つまり、「打算でなく動ける人」が、「善い人」。対して、「まあ、いいじゃん」と言える処世術を使える人が、「良い人」なんです。
・みんなグレーですよ!ブラックもホワイトもみんな持ってますよね
・「いい」の尺度っていうのは、多様で複雑ですからね
・でも、「正しい=いい」なんでしょうかね?例えば、デートと仕事、どちらかを選ばないといけない状態のとき、どっちが「よい」なんでしょう?!(笑)

 

個人的には「神父さんと、処世術に長けた人」の話が興味深かったです。なんとなく、「善」は垂直志向、「良」は水平思考な印象とでもいいましょうか。
また「正しい」と「いい」の関係性も、さらに深めると面白そうですよね。

 

・私の場合は、母が「善い人」だったんです。とにかく曲がったことが大嫌い、すべきことは無理をしてでも「やらなきゃいけない」と思うタイプで、きっちりしているだけでなくそれを私たちにも強いるんですね。たとえば、朝から食事も毎朝必ず6品くらい出てくるとか・・・でも、本人の求める「善」で自身がきつくなって寝込んだり、というのも見てきたりして。「善い人」ってどうなんでしょうね
・自分は、「『他人と共有できる善』を外さない人」が「善い人」だと思います。人間として大事な部分は行動として外さない人、というか。善に関して、グレーはないんではないでしょうか?勿論、弱さも共通項としてあるにしても
・宗教における「よい」にあてはめて、よいか悪いかが決まってきた部分が、これまでの歴史としてありますよね
・でも、最近思うのですが。絶対的な「よさ」が、人間にとってなのか、さらに大枠で言うと、地球の生命体においてなのか・・・によって「よい」は異なってきますね
・最近、英エコノミストが出した「2050年の世界」は、宗教は弱まっていくと予測をしていました
・以前イスラム圏で起こった女の子の射殺・・・あれは「文字を読むということは、自分の考えを持つということ」を象徴した事件でしたね。自分の意見を持つことが、「よい」を考える基礎であるとも思います
・それにしても、地球規模で考えていくと、「よい」という概念がなくなってくる気がします
・「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」 最近、ダーウィンのこの言葉を改めて目にしました。そもそも、酸素に適合した生物だけが進化してきたんですよね
・でも、そうですね、「いい人」の横にいたら生き延びやすいかもしれない!
・要はルールの制定もその原理を利用していて、そもそも殺人を犯す人より、他者と交換し合える人のほうが生き延びやすかったということですね
・正しくjudgrmentを下せる人、いい判断ができる人というのは、生き延びる可能性が高いですものね
・ただの「いい人」はいっぱいいるんですよ。私にとっての「善き人」とは、神輿を担ぎたいな、と思わせてくれる強い存在なんです。信頼できるというか、心酔できるというか
・信頼、というキーワードも重要な気がしますね
・あのですね、一緒にいると「自分はなんて汚れているんだ」と思わせてくれる人がいるんです。自分が軽くあしらっている人にもまじめに話しているんです。それを見るたびにすごいなって・・・

最後の発言は初参加の方だったのですが、皆の「いやいや、そう思えるアナタが一番『いい人』なんじゃないでしょうか?!」と笑い交じりの一斉の突っ込みで、その日の哲学カフェはお時間と相成ったのでした(笑)

ヘーゼルナッツ・ミルクティー・・・なんともいえず芳醇な香りに癒されました♪
今回は久しぶりの泡沫さんでの開催。距離の近い対話が愉しめました。
「いい」という概念の消失もありうる、という文脈はエキサイティングでした。

また、先日読んだ小山龍介さんのこちらのインタビュー。「いい」について書かれたものではないのですが、今回の哲学カフェの文脈を踏まえて考えてみると、「いい」について改めて考えるところがありました。一部抜粋させていただきます。

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―― お仕事でお忙しくされている小山さんですが、最近、「能」のお稽古を始めたと伺いました。どうして能を始めようと思われたんですか?
小山氏:能は、謡と仕舞の両方をやっています。能は、自分の中で大きなテーマのひとつです。著者と向き合う読書と同じように、10年、20年かけて体得する古典として、能は非常に魅力的です。

能は古い言葉で書かれているので、読んでも最初は意味が分からない。でも謡を通じて、音の響きとして理解が深まっていく。文字に向かう意味合いが、大きく変わっていくのを感じるんです。じっくり文字に向かうということができるようになってくるんです。

哲学で言うと、リアリティとアクチュアリティという問題があります。この本の中に書かれている文字は、客観的に存在するリアリティです。しかしそれを謡として体を通して音にしたときには、主観的な経験としてのアクチュアリティが立ち上がります。このアクチュアリティは、一人一人全然違うのです。

―― そのアクチュアリティが、読書体験につながっていくんですね。

小山氏:そうです。僕らは、速読でも何でも、リアリティばかり追求してしまう。300ページの本を2時間で読んだとか。それはリアリティという意味では客観的に証明できますけど、そこで起こったアクチュアリティーは問われていない。

能は、そういう意味で、動きが最小限で、非常にミニマムな型を取りますが、その分アクチュアリティを立ち上げる芸能なのです。そういうものを経験すると、現代の3D映像も含め、リアリティというものの薄っぺらさを改めて、ひしひしと感じるところはありますね。

―― ずっと続いているという理由は、リアリティよりもアクチュアリティの方に重きを置いていることにあるのでしょうか。

小山氏:哲学の歴史で言うと、昔は客観的「存在」があるかどうかっていうのを問うたわけです。そして17世紀には、「存在は発明であり、神様に依らない客観的な存在がある」ということをデカルトが言った。それが大きな影響を与え、科学の進歩に結びついたんです。

でも19世紀には、ヘーゲルによって、時代によって移り変わる「精神」と呼ばれるようになり、さらに20世紀には入ってからは「構造」、さらには「現象」と言われるようになったんです。

―― 「現象」ですか。

小山氏:ロウソクが燃えているとき、その炎は存在しているのでしょうか? たしかに、ロウが激しく酸化して炎となっているわけです。そういったことを考えると、存在というよりも現象として捉えたほうが正確です。また光という現象は、あるときは粒子に、あるときは波に見えたりする。その光は、波なのか、粒子なのか、などという存在の定義は、無意味なんですよね。結局、どういうつもりで見るかによって、波に見えたり粒子に見えたりするわけですから。現象とはそういうもので、客観的にどうだって言えなくなってくるわけです。

―― 物体の、理屈的な説明ではなく、対象物への感じ方に意味があるということでしょうか?

小山氏:客観的な「存在」なんてものを追求してもしょうがないということです。アクチュアリティのような現象が、どのように自分の中で起こったのかということの方が、よっぽど重要なんです。

能が残った理由というのは、リアリティとしての型が守られてきたからというのは、正しくありません。当時の謡を、昔の人と同じように謡ったら、それが現代の人の心の中にも、悲しいとか、切ないとかの感情が確かに起こった。そうしたアクチュアリティの裏付けがある節回しだから、この型は残しておこうということで、今に残ったんです。

―― 型ありきのリアリティではなく、そこにアクチュアリティとしての心情があるから残ったという結果ですね。

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今、求められている「いい」も、また然り、ではないでしょうか。
アクチュアリティの重量がすべてを決める、という窮屈なことを言うつもりは勿論ありません。
ただ、アクチュアリティにはおそらく普遍性があり、その普遍性は言い換えれば「可能性」と言うことが、できはしないでしょうか。

「いい」はこれまで人間を成長させてきたと同時に、戦いも生み出してきました。
公共哲学では「公共善」と「共通善」を考えますが、「いい」が、誰にとって、何にとってのものか考え直すことは、とても大切なことかもしれませんね。
師走にはなりましたが、やっぱりちょっとだけでも、こうして立ち止まって考えてみたいですね(笑)

 

さて!
次回の哲学カフェは12月21日。2012年をしめくくる回となります。
テーマは「2012年 今年の漢字」を、考えてみようと思っています。
発表は12月12日。まだ応募もできるようです。
2012年の世相を表す漢字を「てつがく」することで、なにか見えてくるものがあるかもしれません。
みなさまそれぞれの「今年の漢字」を考えてみていただいても、面白いかもしれませんネ。

 

またお目にかかれますこと、楽しみにしております!

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