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【開催報告】“かわいい”とはどういうことか

☆3/30 KKB『美人時計』さんで鹿児島哲学カフェを取り上げていただきました!☆

皆様、こんにちは!sameshimaです。
春も目前・・・とはいえ、もう少し寒い日が続きますね。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。

本日は、第9回鹿児島哲学カフェのご報告をさせていただきます。

第9回鹿児島哲学カフェ
日時:2月17日(金) 19:30~20:45
場所:Tally’s Coffee 鹿児島中町店
テーマ:「「“かわいい”とはどういうことか」
参加者数:12名

今回はKKBさんが取材をしてくださるとのことで、
リポーターさんにもご参加いただいての熱い時間となりました。

まず導入としては、数年前の、松岡正剛さんの『イメージ・ファクトリー』(ドナルド・リチー)についての評論を使用させていただきました。

「この20年というもの(いつから流行したのかは知らないが)、どんな物品の出来栄えやどんなアイドルの印象についても、『それって、かわいい』『かわいいから、いいわよ』『かわいくなーい』で万事が片付けられてきた。『かわいい』は、そう言いさえすれば便利なのか、無責任でありたいせいなのか、実は何もあらわしていないのか、それともすぐには思いつけない何かのテイストを代弁しているのか、よくわからない。それにもかかわらず、すべての短絡力を発揮する言葉なのである」

「そしてやっと、『かわいい』がクール・ジャパンになったのだ」

そもそも「かわいい・カワイイ・可愛い・Cawaii・・・」って何なのでしょう?
対話の中で、それぞれの使用用途が異なる、ということが見えてきました。
それと同時にそれらに共通する普遍性も。

「“かわいい”とは挨拶のようなもの」「“かわいい”という言葉は便利な言葉。“かわいい”と言われて傷つく人はほとんどいないのでは」「“かわいい”は自分も相手もガードを貫く」など、など・・・

個人的に、現代という文脈における「かわいい」の考察は、内向きだけでは難しいと考えていました。
あくまであるひとつの現象ではありますが、日本人以外が「Cawaii」というワードから想起する概念が、たしかに「ある特定の概念」として認識されているようであり、かつ、それでいて「それは日本らしいのか?」とこぞって首をひねられる状況とはいったいどういうことなのか。そして同時に、若者以外の日本人にとってもまた首をひねりたくなる逆説的な状態が存在している、という、このねじれ現象は何であるのか。

ある参加者さんのこんな引用も象徴的で面白かったです。
「ジャン・ポール・ゴルチェの数年前のコレクション。幼児服を大人仕立てにしたようなモティーフを使用していたのだけど、そこで彼が『これはCawaiiを意識した』と発言していた」

ただ、そうはいっても。

哲学カフェで「じゃ、“かわいい”って何でしょうか?」と対話をはじめると、きわめて身近な概念であるであることも、また確か。
とすると、こういう解が導かれます。
「“かわいい”は、時代・制度の変遷や成熟度とともにその包括する意味も少しずつ拡がっている(「変わった」わけではない)」「また、“かわいい”の理解が困難なのは上述の理由でもあり、きわめて『日本らしい』からだ」

そしてそんな合意形成がわずかに出来上がったところに、ある参加者さんのこんな一言が。「だからこそ、“かわいい”は、社会における様々な構造を、世代の格差を、ぐっと近づける」

そこで「かわいい」の可能性を感じたところで、今回はお時間となりました。

毎回、そうなのですが。
哲学カフェでの時間の熱量、時に肉薄する対話の流れを文章にしようとするのは不可能で、だからあえていつもあっさりと報告を記しています。
もやもやして帰る日もあれば、答えがすかーんと出る日もある。予定調和的な「型」をそもそも持っていないのですから、当然といえば当然ではあります。今回もこの面白さをお伝えできないのが非常に残念なのですが、だからこそ感じたことがひとつ。
「解を導こうとするわけではないこの哲学カフェで、対話の末に『なんらかの可能性が見えてくることがある』。それはもしかしたらなんらかの『希望』でもあるのではないか」。

昨今、希望が見付けにくい時代だと言われます。
それは「希望という答えがどこかにある」と錯覚してしまったからではないでしょうか。

個人的に、希望は一人で探してもみつからないものだと感じます。人は人との練磨によって成長するものだとしたら、議論でもディベートでもなく、相手の話を聴き・尊重し・対話するという哲学カフェの時間で、もしかしたら希望が見えてくることがある、ような気がしました。
勿論そんなたいそうなものでもなく、noseくんが哲学カフェの時間にいつも説明するように、「この時間に意味があるかどうかもよくわかりません」。ただ、いわゆる「てつがくてき」な、根源的な疑問を問い考えることで、もしかしたら世界への理解が深まったり、そこでの「私」が見えてくることがあるのではないかと。

情報過多の現代において「世界」を捉えるのは容易なことではありませんし、ましてその中における「私」たるや、それこそ「存在の耐えられない軽さ」であるように感じられることもあります。ですが、その中に生きているのはほかならぬ「私自身」。そうであるならば、誰かとの対話を通じて「世界について考え感じること」「私自身を問うこと」は、有限である人の持ち時間を深く生きるのに、もしかしたら、少しは意味があることなのかもしれません。

ひさしぶりに、そんなことを感じた帰り道でした。

次回の哲学カフェは、ひさしぶりのシネマ哲学カフェ。
ガーデンズシネマさんとのコラボレーション企画となります。

後日告知いたしますので、どうぞお楽しみに!

あらためて、ご参加いただいた皆様、取材いただいたKKBさんの皆様、ありがとうございました!



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