【開催案内】第11回鹿児島哲学カフェ
みなさま、こんにちは!sameshimaです。
GW、良い天気だったかと思えば、なにやら雨模様。
もしやこのまま梅雨!?
という雰囲気が漂いはじめた初夏ですね。いかがお過ごしでしょうか。
さて本日は、第11回鹿児島哲学カフェ(通常版)のお知らせです。
【第11回鹿児島哲学カフェ】
日時:5月25日(金) 19:30~21:00
場所:PRONTO 鹿児島中央駅西口店(鹿児島県鹿児島市武1丁目1−2)
料金:各自の飲食分
テーマ:「男女平等ってどういうこと?」
※当日の写真をブログや新聞記事等で使わせていただく場合がございます。(全体の雰囲気程度)
問題がある方は事前にお申し付けください。
お申し込み:以下のいずれかの方法でお申し込みください。
①下記フォームよりお申し込み
②facebookにて第11回イベントページにアクセスの上「参加」をクリック
③Twitterにて@cafephilo_kgsにDM
男女平等って、どういうことでしょうね。
昔よく祖母に叱られていた私、その台詞は
「まこて!おなごんよいで!」(まったく!女の子のくせに!)
どんだけやんちゃだったんでしょう、っていうのはさておいて、
「らしさ」という概念って、あるような気がしますよね。
それって、なんなのでしょうね。
老若男女、さまざまな方が集う鹿児島哲学カフェですが、
毎回、“だからこそ”の深い言葉・洞察がみられ、
てつがくてきな営みが奥行きのあるものになっている、と感じます。
今回も、熱い対話になりそうな予感です。
お申込、お問い合わせ、お気軽にどうぞ。
当日、お目にかかれますこと、楽しみにしております!
【開催報告】第10回鹿児島哲学カフェ
皆様、こんにちは!sameshimaです。
GW、お休みの方も、お仕事の方もいらっしゃったと思いますが、
連休後半はお天気にも恵まれ、よい一週間だったのではないでしょうか^^
さて本日は、第10回鹿児島哲学カフェの開催報告をさせていただきます。
日時:4月27日(金) 19:30~20:45
場所:コワーキングスペース301
テーマ:「生きるのに意味は必要か」
参加者数:14名
今回は初めて、コワーキングスペース301さんにて開催させていただきました。
代表の馬頭さん、ありがとうございました♪
今回は鹿児島経済新聞さんに2回目の取材をして頂きました。
5/5付で記事がUPされておりますので、開催報告と合わせてお楽しみください。
「鹿児島哲学カフェ」が1周年-コーヒー片手に延べ138人が参加
(開始前、皆さんゆるやかに談笑。301さんの素敵な空間です♪)
「そもそも、『生きるのに意味は必要か』・・・この問い自体が抽象的ですね」
という声から始まった第10回。
まったくもって仰るとおり。私もそう思いながら今回に臨んだのでした(笑)
ただ、「もう自分は生きてる意味なんてない」と思うことって、
もしかしたら誰しもあるもの・・・ではないでしょうか?
「生きる」こと、
そして「生きる」ことの「意味」、
はたまた「生きる」ことに「意味」は「必要」か否か・・・
このテーマが人生の大命題になる可能性って、ね。あるのではないでしょうか。
ただ生きていただけなのに、エアポケットにふと落ちてしまって、
ただ「生きる」ことがこんなにも難しいのだろうか、と思ってしまうこと。
そしてそのとき孤独であったら、「生きる」ことができなくなるかもしれない。
そのときに「意味」が、もしかしたら意味を持つのかも・・・?
さてさて、どんな展開になることでしょう♪
「まずはこのテーマについて、特に“意味”という部分を意識して、
思いつくことを挙げてみましょうか」
noseさんのそんな言葉から、
皆さん思うところを気兼ねなく口に出していただいたのが、上記。
数々のご意見の中でも、
「なんていうのかしら、生きていると意味が体にくっついてくるんですよね」
というある参加者さんに、うんうんと首を縦に振る方数名。
他者との関係性における、もしくは属するコミュニティにおける
その中での自分の立ち位置。意味。
家族、親戚関係の中であれば、
自分が子であり、親であり、姉であり、兄であり、妹であり、弟であり、
叔母であり、伯母であり、叔父であり、伯父であり、姪であり、甥であり・・・
もしくは友人との関係の中で、恋人との関係の中で、
あるいは会社の中で、
趣味でのコミュニティの中で・・・
軽々に「人の意味は他者との関係性の中で規定される」とは言えませんし、
そのスタンスはあまり哲学的とはいえないと思うのですが、
「他者との関係性」において自己の存在に意味が生じる、こと。
これは実感として、否定できないのではないでしょうか。
そして個人的にはこの「実感として」という部分が、
哲学カフェにはとても重要なものだと思っています。
とはいえ、対話の中で
「自分は死にたいと思っていた時期がある。
それは生きる意味よりも死ぬ意味のほうが大きかったから」
とう声も聞かれました。
これはどれだけ意味がくっついていても、
むしろ、だからこそ生じる思念なのか、
意味とは関係ないところで生じるものなのか。
ひとつの大きな臨床哲学のテーマかもしれません。
なにはともあれ、この参加者さんが、
こうして生きて、楽しそうに笑いながら日々を過ごし、
この言葉を発してくれていることが本当に嬉しいことです。
また、
「娘が結婚する時、命って、歴史って、繋がっていくんだ~って感じました」という声も。
「つながり」・・・これも、特にこの1年における大きなキーワードの一つですけれど、
こうして「生きる」「意味」という出発点から、
「つながり」という言葉が自発的に出てくること。
逆説的ですが、「トレンド」の強み、深みも感じさせられますね。

「じゃあ、今まで生きてきた中で、意味があると思った時・ないと思った時は?」
上記の対話の中では、こんな問いが出てきました。
「生きる意味がないと「よい人生」とは言えないの?」
ここでも対話は大盛り上がりをみせます。
「ふりかえって、死ぬ時に生きてきた意味がわかるのでは?」
「そもそも、生きる意味がないと、自分で決められるんですかね?
他人が決めるの?っていう話もありますけど・・・
でも、自分で決めるとすれば、ひとりよがりなんじゃないですかね~?」
「『あなたは生きている意味がないよね』と言われると傷つきます。
逆に、『これがあなたの生きている意味だよ!』なんて言われると
やっぱり嬉しいですよね!」
「生物としては、子孫が残っていれば、生きていた価値があるのかな・・・」
どうなのでしょうね。
そもそも「よい人生」ってなんでしょう、という問いがあるので、
ここに寄り道してしまうと・・・「朝まで哲学カフェ」になってしまいますので、そこは今回保留でご勘弁くださいませ(笑)
そして、最後に「生きる意味はすべての人にあるのでしょうか?」という問い。
具体例としては
「犯罪ばかり起こす人の、生きる『意味』ってなんですか?」
このあたりから各自の死生観がベースになったこともあるのでしょうか、
対話が熱を帯びてきました。
たとえば「悪」の定義ひとつとっても、難しい。
そんなわけで、進んだり、進まなかったり、ちょっと戻ってまた進んだり。
さまざまな言葉が飛び交いましたので、詳しくは割愛させていただきたいのですが。
ただ、ここでひとつはっきりしたことがあります。
それは、「意味」と「価値」の言葉の意味は違うこと。
つまり、
「わたし、生きる意味なんてないんです」は、
「わたし、生きる価値なんてないんです」
と同義ではない、ということなんですよね。
あなたが今生きている意味は、
あなたが今生きている価値とは、ちょっと違うところにありそうです。
これが、第10回鹿児島哲学カフェのひとつの解であり、メルクマールでもあります。
ここはこの回のハイライトかもしれませんね。
本当は、もっとそこに至る経緯を記したいところなのですが、
それがうまくできない、という性質こそ、
ザ・哲学カフェ・・・と、思っていただければ幸いです。
そのときの対話の熱量が、哲学カフェのひとつの「意味」なのかもしれませんから。
また、前後して、
妻に先立たれた夫と、夫に先立たれた妻、どちらが長生きする?という話も。
さまざまな年代の方が集う、哲学カフェならではの展開でした。
ここで出てきたのは「女性のほうが『意味付け』が得意」ということ。
「女性はダンナが死んでも、すぐ友達見つけてわいわいやってるじゃない?」
「まったくですねえ・・・(ため息)」
つまり、「意味付けが強い=生命力?」と、なるのでしょうか・・・?
どうなんでしょう、諸先輩方・・・?
そんなところで、この回はお時間と相成りました(笑)
・ ・ ・
「生きるのに意味は必要か」
実はこのテーマは哲学カフェスタート前のキックオフミーティングから、
第1回にと用意していたものでした。
しかし開催直前に東日本大震災を経験したこともあり、
より「つながり」を考えてみたい、との思いから「ともとは何か」に変更した、
という経緯もありました。
その分私たちスタッフにとっても思い入れのあるテーマでした。
東日本大震災からもうすぐ1年2ヶ月が経過します。
復興2年目、ということになりますね。
安易に「復興」という言葉を使うのもためらわれるのですけれど、
同時期にスタートしたてつがくカフェ@ふくしまさんなど、
皆さんさまざまな思いで「いま」と向き合っておられます。
「生きるのに意味は必要か」
「意味」についてなにか感じていただけるところがあれば、幸いです!
ということで。
次回の予定は、またこちらのHP・facebookページに掲載いたします。
お目にかかれますこと、楽しみにいたしております♪
【開催案内】第10回鹿児島哲学カフェ
皆様、こんにちは。sameshimaです。
春の嵐も過ぎ去り、ようやく暖かくなってきたナ・・・と、朝晩も感じるようになりました。
今年の寒さは長かったですね。
それだけに、ひとしお、暖かさが沁みる今日この頃です^^
鹿児島哲学カフェは、先日開催させていただいたシネマ哲学カフェ『エンディングノート』で、初年度を終了いたしました。
ということは、はじめての開催から1年経った、ということになりますね。
あらためて、参加者の皆様、関係各位の皆様に支えられていることを感じ、深く感謝の思いが湧いてまいります。
いつも、本当にありがとうございます。
9回の通常版哲学カフェ、
2回のシネマ哲学カフェ、
2回の外部開催(財団法人明るい選挙推進協会さま 若者リーダーフォーラム、三重県選挙管理委員会さま グリーン・エイジ・ミーティング)。
こうして振り返りますと、13回、哲学カフェを開催していたのですね~。
初回から振り返ってみますと、雰囲気、対話したこと・・・ちゃんと覚えているものだなと、じんわり胸に沁みてきます。
これらの、皆様と対話した時間こそが、何よりの宝物だと感じています。
さて本日は、2012年度(2年目)初めての、通常版鹿児島哲学カフェ(第10回)開催のお知らせです。
【第10回鹿児島哲学カフェ】
日時:4月27日(金) 19:30~21:00
場所:コワーキングスペース301 (〒890-0053 鹿児島市中央町14-9 三森ビル3階 オンドデザイン内)
料金:500円(フリードリンク含~コーヒー、紅茶~)
テーマ:「生きるのに意味は必要か」
※当日の写真をブログや新聞記事等で使わせていただく場合がございます。(全体の雰囲気程度)
問題がある方は事前にお申し付けください。
お申し込み:以下のいずれかの方法でお申し込みください。
①下記フォームよりお申し込み
②facebookにて第10回イベントページにアクセスの上「参加」をクリック
③Twitterにて@cafephilo_kgsにDM
今回は初めての、301さんでの開催です。
301さんは、デザイン事務所オンドデザインさんが運営されている、コワーキングスペースです。
鹿児島にも徐々に増え始めたco-working style・・・個人的なイメージとしては、さまざまな方のさまざまな関わり・コミュニケーションから「なにか」が生まれるところ、そんなふうに感じています。
哲学カフェでもまた、「なにか」が生まれることもあり、そうでないこともあり(笑)ですが、このたびこうして2年目の節目を301さんで開催させていただけること、大変嬉しく思っております。
また今回のテーマは、1年寝かせた(!)「生きるのに意味は必要か」。
寝かせた理由は、当日ご説明いたしますね。
お申込、お問い合わせ、お気軽にどうぞ。
当日、お目にかかれますこと、楽しみにしております。
【開催報告】鹿児島哲学カフェ × gardens’ Cinema シネマ哲学カフェ『エンディングノート』
こんにちは。sameshimaです。
例年になく大きな春の嵐も過ぎ、麗らかな春の日差しに満ちている鹿児島ですが、
皆様いかがお過ごしでしょうか。
本日は、3月24日(日)に開催いたしました、
鹿児島哲学カフェ × gardens’ Cinemaシネマ哲学カフェ『エンディングノート』
の報告をさせていただきます。
☆イベント詳細につきましては、こちらの 鹿児島哲学カフェ × gardens’ Cinema シネマ哲学カフェ『エンディングノート』 をご覧ください☆
2009年、東京。熱血営業マンとして高度経済成長期に会社を支え駆け抜けた「段取り命」のサラリーマン・砂田知昭は、67歳で40年以上勤めた会社を退職、第二の人生を歩み始めた矢先、毎年受けていた健康診断でガンが発覚する。すでにステージ4まで進んでおり、残される家族のため、そして人生の総括のため、彼が最後のプロジェクトとして課したのは「自らの死の段取り」と、その集大成ともいえる“エンディングノート”の作成だった。やがてガン発覚から半年後、急に訪れた最期。果たして彼は人生最大の一大プロジェクトを無事に成し遂げることができたのか。そして残された家族は……。
鹿児島哲学カフェにとって、二回目のシネマ哲学カフェとなりました(一回目はこちら)。
毎度お馴染み、noseさんがファシリテーターとなって、まずはシネマ哲学カフェの簡単なルール説明を。
※noseさんお手製ルールカード、なかなかいい味出してます!ご注目。笑
ということで、さあ、ここから哲学カフェの時間。
はじめに、映画『エンディングノート』の感想を皆さんに話していただきました。
【感想(抜粋)】
・死の段取りをして死んでいけるのは幸福なんじゃないでしょうか(男性)
・改宗、教会での葬式など、計算高い部分が素敵だと思いましたね(男性)
・この映画の監督は、主人公の娘さん(先日、平成23年度芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞された砂田麻美監督)。実際には、主人公である砂田知昭さんの胸中と、映画としての『エンディングノート』は当然ながら異なるはずですよね。その点が、映画ファンとしては複雑でもありますね・・・(男性)
・主人公の死は恵まれた死だと思うんですよ。なので、自分としてはこの映画を『“ハッピー”エンディングノート』としたいくらいですね(女性)
※たまたま性別を記していましたので、そのまま表記させていただきました
死は、万人に平等に訪れるもの。
映画の中で主人公は、自分自身の大体の死期を知り、どのようなエンディングを迎えたいのかを明確に意図し、かつ、その計画をほぼ完遂して旅立ちました。
その点において、この『エンディングノート』は、「幸せなエンディング」ではないか、ということで皆さん大体意見が一致しました。
では、「幸せな死」とはなんなのでしょう?
死には、死に際してその当人による準備が可能である死と、準備のできない突発的な死があります。
しかし、そもそも死は備えるべきものなのでしょうか。
ここからは、「幸せな死とはなにか」、対話をしていきました。
・まずは3日以内に見つかりたいなあ・・・オレ、その時には生きてないけど(笑)
・その時々にまずは目を向けて生きる、それが幸せな死に繋がるんじゃないかな
・準備するしないというか、今までの生き方を続けていけばいいんじゃないですかね
・生き方が、死に、反映されるように思うんです
・やっぱり、自分で納得いく生が送れるのが一番じゃないですかね。精一杯やっていれば悔いも残らないって思うんです。心穏やかにいられる気がする。
・でも、なんていうか、精一杯生きないと幸せじゃないんですかね?
・整然とした死でないといけないんでしょうか。孤独死だって、それを望んでいる人もいるとおもうんですよ。だめなんですかね?
・というか、そもそも生も死もオーバーに考えすぎじゃないでしょうか?
・でも、昨年の震災も経て、生も死も、ひろく人々の話題にのぼるようになったこと、考えられるようになったことは好ましいと思いますよ。生も死も悪いことではなく「あたりまえ」のことだと話し合えるようになった、というかね
・そういえば、今、生も死も病院で迎えることが多く、どこか人任せな部分がありますよね。そういった部分も大切な視点かもしれませんね
「良い死」。
そもそも「良い死」というものはあるのでしょうか?
「良い死」が「ある」ということを、無意識のうちに大前提として共有しているのでは?
という疑問が、対話の中で生まれてきました。
そして話題はいつしか「エンディングノート」自体へ。
・エンディングノートを残すとして、「自分をこう見送って欲しい」という明示がされているのは、残された家族を助けてくれると思うんですよ。父の愛、というか。
・そうですね。家族側から見て、「もっとこうしてあげればよかったかも」という後悔が軽減されるかもしれませんね
・エンディングノートって、残される者へのメッセージでもあるんじゃないでしょうか。気持ちを整理して伝える、というか
※みなさん、考えてますネ・・・
濃い対話の時間は、あっという間に過ぎてまいります。
気付けば、あと20分!
ということで、最後の対話は「あなたは、死がこわいですか?」という問いかけから。
・こわいというか、嫌ですね。今のこの時間も、生きているから味わえる。それがなくなるというのは、嫌ですね
・うーん、でも、いつかは行くんだろうな・・・
・でも、私、わくわくもするんですよ(笑)
・やっぱり、死と生は対極だと思うんですけど、死を思うことで思い切り生きられるような気がします。そういう意味では死をみつめたくはあるんです
・いやいや、僕、こわいですよ!生まれてくることすら自分では選択できなくて、こわいのに!(笑)
・死がある、ってのは、いいことなんじゃないですかね。死があるから、「あ、これをやっとかなきゃ」ってのがありますからね
・そう思うと、小さいころから死生観を持って生きるのは大事なんじゃないですかね
・自分はだんだんとこわくなってきました。やっぱり、年齢的にだんだんね・・・(笑)
・自分はですね、エンディングノートみたいなものを買ってみたんですよ。でもね、なかなか書けるもんじゃない!(笑)
・遺書とか遺言状っていうのは「あそび」の部分がないですよね、でもエンディングノートなら書きたいようにかけるというのはいいですね!
・あとに残る人たちに、迷惑はかけないように、「あとしまつ」の意味をこめて書きたいというのは、ありますね。死後も世界は続くわけですから、スムーズに流れて欲しいですものね
熱く真剣な対話の中、皆さん笑いをまじえつつ、ユーモラスな対話が進みました。
そのことに、とても感動しました。
「死」は、大きく、またもっともセンシティブなテーマの一つ。
私自身、『エンディングノート』の上映中は半分以上涙を流したほど、深く心揺さぶれられました。
おそらく今回のシネマ哲学カフェに参加されたほとんど全員が、多かれ少なかれ、涙を流されただろうと思うのです。
参加者の皆さんの数だけ、さまざまな「死への思い」があったことでしょう。
もちろん各自の信仰も含めて、さまざまなバックボーンがあったことでしょう。
それにもかかわらず、あるいはそのせいなのか、この時間には不思議な明るさがあったんですね。
ひらかれた、率直な対話、といえばいいのでしょうか。
また、「僕はですね、自分の葬式でのスピーチを考えてるんですよ」という方もおふたり。
個人的には共感するものがありました。
そこで、何を伝えようと思うのか。
そう、思いを馳せてみるのは、興味深いことではないでしょうか。
マルヤガーデンズ7F、陽光あふれるオープンガーデン。
さまざまな素敵なイベントがひらかれるこの場所での、2度目のシネマ哲学カフェは、そんな時間となりました。
終了後はいつになく、皆さん、長居をされていらっしゃいました。
多くの方が、どこか立ち去りがたいようなご様子にも見受けられました。
思えば、死は、皆等しくあたりまえに訪れるものであるのに、
それを語り合うことは少ないように思います。
どんなに愛していても、大事に思っていても、必ずやってくる死。
死を思うときに見えてくるものというのは、確かに、あるような気がしました。
こうして記していて、しぜんと、深い思いが湧いてきて、
なぜかすべての人々に感謝したくなります。
このシネマ哲学カフェは、鹿児島哲学カフェの1年目をしめくくるイベントとなりました。
皆様、1年間、誠にありがとうございました。
最後になりますが・・・
ガーデンズシネマさま、
マルヤガーデンズさま、
参加者のみなさま。
今回も良い時間をご一緒させていただきました。
本当に、ありがとうございました!





