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【開催報告】生きるのに意味は必要か

皆様、こんにちは!sameshimaです。
GW、お休みの方も、お仕事の方もいらっしゃったと思いますが、
連休後半はお天気にも恵まれ、よい一週間だったのではないでしょうか^^

 

さて本日は、第10回鹿児島哲学カフェの開催報告をさせていただきます。

第10回鹿児島哲学カフェ
日時:4月27日(金) 19:30~20:45
場所:コワーキングスペース301
テーマ:「生きるのに意味は必要か」
参加者数:14名

今回は初めて、コワーキングスペース301さんにて開催させていただきました。
代表の馬頭さん、ありがとうございました♪
今回は鹿児島経済新聞さんに2回目の取材をして頂きました。
5/5付で記事がUPされておりますので、開催報告と合わせてお楽しみください。

「鹿児島哲学カフェ」が1周年-コーヒー片手に延べ138人が参加

 

 

(開始前、皆さんゆるやかに談笑。301さんの素敵な空間です♪)

「そもそも、『生きるのに意味は必要か』・・・この問い自体が抽象的ですね」
という声から始まった第10回。
まったくもって仰るとおり。私もそう思いながら今回に臨んだのでした(笑)

ただ、「もう自分は生きてる意味なんてない」と思うことって、
もしかしたら誰しもあるもの・・・ではないでしょうか?
「生きる」こと、
そして「生きる」ことの「意味」、
はたまた「生きる」ことに「意味」は「必要」か否か・・・
このテーマが人生の大命題になる可能性って、ね。あるのではないでしょうか。

ただ生きていただけなのに、エアポケットにふと落ちてしまって、
ただ「生きる」ことがこんなにも難しいのだろうか、と思ってしまうこと。
そしてそのとき孤独であったら、「生きる」ことができなくなるかもしれない。
そのときに「意味」が、もしかしたら意味を持つのかも・・・?

 

さてさて、どんな展開になることでしょう♪

 

「まずはこのテーマについて、特に“意味”という部分を意識して、
思いつくことを挙げてみましょうか」
noseさんのそんな言葉から、
皆さん思うところを気兼ねなく口に出していただいたのが、上記。
数々のご意見の中でも、
「なんていうのかしら、生きていると意味が体にくっついてくるんですよね」
というある参加者さんに、うんうんと首を縦に振る方数名。

他者との関係性における、もしくは属するコミュニティにおける
その中での自分の立ち位置。意味。

家族、親戚関係の中であれば、
自分が子であり、親であり、姉であり、兄であり、妹であり、弟であり、
叔母であり、伯母であり、叔父であり、伯父であり、姪であり、甥であり・・・
もしくは友人との関係の中で、恋人との関係の中で、
あるいは会社の中で、
趣味でのコミュニティの中で・・・

軽々に「人の意味は他者との関係性の中で規定される」とは言えませんし、
そのスタンスはあまり哲学的とはいえないと思うのですが、
「他者との関係性」において自己の存在に意味が生じる、こと。
これは実感として、否定できないのではないでしょうか。
そして個人的にはこの「実感として」という部分が、
哲学カフェにはとても重要なものだと思っています。

とはいえ、対話の中で
「自分は死にたいと思っていた時期がある。
それは生きる意味よりも死ぬ意味のほうが大きかったから」
とう声も聞かれました。
これはどれだけ意味がくっついていても、
むしろ、だからこそ生じる思念なのか、
意味とは関係ないところで生じるものなのか。
ひとつの大きな臨床哲学のテーマかもしれません。
なにはともあれ、この参加者さんが、
こうして生きて、楽しそうに笑いながら日々を過ごし、
この言葉を発してくれていることが本当に嬉しいことです。

また、
「娘が結婚する時、命って、歴史って、繋がっていくんだ~って感じました」という声も。
「つながり」・・・これも、特にこの1年における大きなキーワードの一つですけれど、
こうして「生きる」「意味」という出発点から、
「つながり」という言葉が自発的に出てくること。
逆説的ですが、「トレンド」の強み、深みも感じさせられますね。

「じゃあ、今まで生きてきた中で、意味があると思った時・ないと思った時は?」

上記の対話の中では、こんな問いが出てきました。

「生きる意味がないと 「よい人生」とは言えないの?」

ここでも対話は大盛り上がりをみせます。
「ふりかえって、死ぬ時に生きてきた意味がわかるのでは?」
「そもそも、生きる意味がないと、自分で決められるんですかね?
他人が決めるの?っていう話もありますけど・・・
でも、自分で決めるとすれば、ひとりよがりなんじゃないですかね~?」
「『あなたは生きている意味がないよね』と言われると傷つきます。
逆に、『これがあなたの生きている意味だよ!』なんて言われると
やっぱり嬉しいですよね!」
「生物としては、子孫が残っていれば、生きていた価値があるのかな・・・」

 

どうなのでしょうね。
そもそも「よい人生」ってなんでしょう、という問いがあるので、
ここに寄り道してしまうと・・・「朝まで哲学カフェ」になってしまいますので、そこは今回保留でご勘弁くださいませ(笑)

 

そして、最後に「生きる意味はすべての人にあるのでしょうか?」という問い。

具体例としては
「犯罪ばかり起こす人の、生きる『意味』ってなんですか?」

このあたりから各自の死生観がベースになったこともあるのでしょうか、
対話が熱を帯びてきました。
たとえば「悪」の定義ひとつとっても、難しい。
そんなわけで、進んだり、進まなかったり、ちょっと戻ってまた進んだり。
さまざまな言葉が飛び交いましたので、詳しくは割愛させていただきたいのですが。

ただ、ここでひとつはっきりしたことがあります。
それは、「意味」と「価値」の言葉の意味は違うこと。
つまり、
「わたし、生きる意味なんてないんです」は、
「わたし、生きる価値なんてないんです」
と同義ではない、ということなんですよね。

あなたが今生きている意味は、
あなたが今生きている価値とは、ちょっと違うところにありそうです。

これが、第10回鹿児島哲学カフェのひとつの解であり、メルクマールでもあります。
ここはこの回のハイライトかもしれませんね。

本当は、もっとそこに至る経緯を記したいところなのですが、
それがうまくできない、という性質こそ、
ザ・哲学カフェ・・・と、思っていただければ幸いです。
そのときの対話の熱量が、哲学カフェのひとつの「意味」なのかもしれませんから。

 

また、前後して、
妻に先立たれた夫と、夫に先立たれた妻、どちらが長生きする?という話も。
さまざまな年代の方が集う、哲学カフェならではの展開でした。
ここで出てきたのは「女性のほうが『意味付け』が得意」ということ。
「女性はダンナが死んでも、すぐ友達見つけてわいわいやってるじゃない?」
「まったくですねえ・・・(ため息)」

つまり、「意味付けが強い=生命力?」と、なるのでしょうか・・・?
どうなんでしょう、諸先輩方・・・?

 

そんなところで、この回はお時間と相成りました(笑)

・     ・     ・

 

「生きるのに意味は必要か」
実はこのテーマは哲学カフェスタート前のキックオフミーティングから、
第1回にと用意していたものでした。
しかし開催直前に東日本大震災を経験したこともあり、
より「つながり」を考えてみたい、との思いから「ともとは何か」に変更した、
という経緯もありました。
その分私たちスタッフにとっても思い入れのあるテーマでした。

 

東日本大震災からもうすぐ1年2ヶ月が経過します。
復興2年目、ということになりますね。
安易に「復興」という言葉を使うのもためらわれるのですけれど、
同時期にスタートしたてつがくカフェ@ふくしまさんなど、
皆さんさまざまな思いで「いま」と向き合っておられます。

 

「生きるのに意味は必要か」
「意味」についてなにか感じていただけるところがあれば、幸いです!

 

ということで。
次回の予定は、またこちらのHP・facebookページに掲載いたします。
お目にかかれますこと、楽しみにいたしております♪

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