時は盛夏。連日猛暑が続きますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
先日は第25回鹿児島哲学カフェへのご参加、ありがとうございました。
直前の募集にもかかわらず、18名もの皆様にご参加いただきましたこと、心より御礼申し上げます。
【第25回鹿児島哲学カフェ】
日時:7月26日(金) 19:30~21:30
人数:18名(男性9名,女性9名,初参加5名)
場所:コワーキングスペース301
テーマ:成長しなくてはいけないの?
成長。
私たちを喜ばせ、また傷つけもする言葉である。
と、少し時間が経って思えてきました。
この板書を見ていて、なぜか「痛み」が感じられるのは、私だけでしょうか。
近代、特に戦後の日本において、「成長」とは無意識に「右肩上がり」を指すことが多かったのではないでしょうか。
人間とは「成長」しなくてはいけないのか?
カフェ内でのこの問いに引き出された言葉に、共通していたもの。
それは「善」。
例えば「売上」という、「社会」で「共有」されている「善」は、成長を量るひとつの尺度だと。
またその「善」の達成までの道の途中で、他人との「差異」が見つかるとも。
差異=個性、ともいえるでしょうか。
またこの「善」という評価軸の中では、この「善」が一定に達しなければ「生活」に支障が生じるとも。
「善」。手強いですね。
東日本大震災も含めた、ここ数年の様々な社会の変化。
「成長」がかりに必要なものだとしたら、わたしたちは「何」を目指して「成長」すればよいのでしょう。
また、グローバルというある種の「均質化」志向も、「善」を語る上では避けて通れないトピック。軽々に論じるのは躊躇われますが、ここに存在する痛みもまた、俎上に乗せられるべきものかと思われてなりません。
痛みを俎上に乗せ、痛みを囲んで対話ができること。
ありがたいことだと思わされました。
皆様に沢山のことを教えていただいた2時間でした。
ひとりごとのような内容になってしまい、恐縮です。
ありがとうございました。