12月11日(日)、鹿児島哲学カフェはじめてのコラボイベント、
鹿児島哲学カフェ × gardens’ Cinema
シネマ哲学カフェ『ちいさな哲学者たち』
を開催いたしました。
☆イベント詳細につきましては、こちらの 開催案内 をご覧ください☆
>今回、題材となる映画はガーデンズシネマさんで12月の3日から公開される『ちいさな哲学者たち』。この映画はフランスのとある幼稚園で2007年に始まった“こどものための哲学” の授業。3歳から2年間、月に数回の授業の中で「愛ってなに?」、「自由ってどういうこと?」、「大人はなんでもできるの?」など様々なテーマについて語り合い、授業を通して、お互いの言葉に刺激を受け、他人の話に耳を傾けること、そして意見は違っても、自分たちの力で考える力を身につけてゆく。そんなドキュメンタリー映画です。(開催案内より)
まずはファシリテーターのnoseさんが、参加者のみなさんに、映画『ちいさな哲学者たち』感想をうかがいました。
• 対話のできる社会って、いいなぁ
• 偏見のない子どもの素直さを見習いたいなぁ
• 日本にはこれまで”対話“の必要性がなかったけれど、
今後の世界はは、自分の言葉で自分の考えを表現することが大事だよね!
• 人は小さいころから、身近な偏見などにさらされて生きていますね・・・
だからこそ、子供たちの言葉を掬っていきたい
みなさんの率直で素直な感想から、いつも以上に素直な対話が進んでいきました。
そして、映画内での「授業」は成功していた?という問い。
• 成功の判断は長期的なスタンスでしていくことになるのだろう
• (映画についてだけではなく)「長い目」でみていくことの大切さを感じさせられた
• (教育現場で)なにか出来事が起こったとき、
有事後にはじめて「語る」場(ex,全体集会)を設けるのではなく、
普段から皆で(様々なことについて)考えてみる時間が設けられればよいですね
• (以前、ガーデンズシネマさんで上映されていた)映画 『森聞き』を思い出した。
子どもが自分自身で意思決定していく機会、
積極的な意見の交換の機会はほんとうに大切!
• 対話も、最初はなかなかむつかしいけれど(子どもだと、手が出てしまったり・・・)、
回数を重ねるうちに皆が対話できるようになるんですね
• 社会における「生きづらさ」についても、
地域の人々と考えていく、対話していくことでなにかが見つかるんです
• (授業が行われているフランスは民族的にも多様な人々が暮らしている。)
自分自身のルーツに自信を持つことや、多様性の受容にもつながるのでは
と、ここで、
「 そういえば、“道徳”の授業は“道徳的”な回答・動線ありきですよね。
しかも、その内容は教える側の先生によってちがうような・・・」
というご意見が出たところから、対話がさらに進んでいきました。
「では、道徳と「てつがく」ってどう違っているのでしょう?」とnoseさん。
(あえて、漢字表記の「哲学」ではなく、ひらがな表記をしております)
<道徳>
• 答えが前提としてあり、なおかつその答えに向かっての導線を大人が引いている
• 国語の教科書もある意味、その一環といえるのでは?
• 権力者によって恣意的につくりかえられる
• そもそも、教育者自体が受けてきた道徳教育の濃度に差がある
• 「良い子キャラ」が強制される土台なのでは?
<てつがく>
• まず自主的な発言からなる、というイメージ
• 「ザ・教科書」的なものがないですよね
• 「人」そのものなんじゃないでしょうか
• 自分の頭で考えるもの
• 個人として持っていたほうが、「生きやすい」ものですかね
• 自分の中でのものの見方、基準、規範なんだと思うのですが、
昔はそういったものは、もっとも近しい存在である家族との対話、
あるいは地域というコミュニティ内での対話で形成されてきたのでは?
• てつがくって、「死」について考えることでもあると思うのですが、
そのことによって、より「生」が深まると感じるんですよ
いやいや、止まらない止まらない。
みなさんの意見をまとめながらプロジェクターで映し出していたのですが、
キーボードを叩きながら、うーん、と考え込むことしきりでした。
「じゃあね、「てつがく」することって、日本で根付くんですかね??」
• そもそも、上意下達的な枠組みが根強いですよね、
まずは大人の環境から変えていきたいですね
• リーダーの役割っていうのが、非常に重要だと思うんです
• いま、リーダーにはファシリテーター的な要素が大切じゃないでしょうか。
ファシリテーターって、上からではなくて、どちらかというと横からの目線。
その人が持っているいいものを引き出せるような場をつくる能力です
• リーダーとしての能力・適性って、
すべての人の中にその資質があると考えると、また違うと思うんですよ。
そういう目線で人を見ると、いろんなものが見えてきます
はからずも、「てつがく」や対話の可能性から、リーダー論に発展したのでした。
最後に、哲学カフェの存在意義についてみなさんにお訊ねしてみました。
キーワードとして出てきたのは、以下のような言葉でした。
• 一方向からではない
• 対話
• 話し合い
• 「場」
• 自分の考えを話す、聞かれる、人の考えを聞くことができる
(そもそも、日本の日常生活の中って、
他人のてつがく的な考えを聞く機会自体が少ないですよね)
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90分間があっという間に感じられる、対話の時間でした。
「What Is “てつがく”?
“わたし”が、
“いま” “ここ”に、
“ある”こと。
“てつがくする”って、まずはそういう、
“あたりまえ”みたいな感覚をみつめる。ってことなんじゃないかな。
だから、みんなが、“てつがくしゃ”。
だから、“哲学カフェ” って、
『さあ、みんなで“てつがく”してみようよ!』
っていう “じかん” であり、
“ばしょ” なのかも、ね。」
個人ブログにそんなことを書かせていただいたのですが、
「てつがくする」という行為、「みんなでてつがくする=哲学カフェ」という行為について、
はからずも、なにかしら、手触りの感じられるような時間となりました。
この日感じたこと、思ったこと、多々ありますので、
あらためて別の機会に書かせていただければと思います。
ご参加いただいたみなさま、ガーデンズシネマさま、マルヤガーデンズさま。
ほんとうにありがとうございました。