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私にとっての「哲学カフェ」

皆様、こんにちは。

4月1日はすっきりと暖かい、よいお天気になりましたね。皆様新たな気持ちで今日を過ごされたのではないでしょうか。

さて鹿児島哲学カフェの第一回開催まで一ヶ月を切ったこともあり、哲学カフェについて少しばかり書いてみようと思います。

耳慣れない「哲学カフェ」という名称。一体そこでは何がなされるのか、とお思いの方も多いのではないでしょうか。実は私もこの「哲学カフェ」には参加したことがありません。noseさんや、東京版哲学カフェに関わっている友人から「とにかく面白いんだ」という声を聞き、そもそも彼らの人間性が魅力的なので、そうか、彼らが言うのだったらきっと面白いのだろうな・・・という感じです。ですので、「はじめて」という立ち位置は、お読みいただいている皆様とまったく同じ。だからこそ、「哲学ってなに?」「哲学カフェってなに?」という素朴な疑問をお持ちの方、大歓迎です。

哲学の原点とは「哲学する」ということ。では、「哲学する」とは何か。それはひらたく言うと、わたしたち自身の持つ根源的な疑問や不安について問い、考え抜くこと。その結果として積み上がった学問体系が「哲学」です。たしかに我々人間は長年の間に様々な分野でめざましい発展を重ねてきたかもしれません。しかし人が問わずにいられないことは昔からさして変わっていません。哲学は、その正体を探るためのひとつの手段です。

現在日本では、哲学は一般社会から乖離したものとして捉えられています。その理由は幾つか考えられますが、まず主なものとしては用語の難解さが挙げられるでしょう。思想そのものというより、純粋に用語の難解さ。では、なぜそういった事態が生じているのか。一言で言ってしまえば、明治期の西洋哲学輸入で生じた貿易摩擦の結果です。西洋で長年積み上げられてきた哲学的思想を翻訳するにあたり、それを表すことのできる日本語は存在しませんでした。故に翻訳作業に当たった先人たちは造語せざるを得ず、その結果、哲学用語を学ばなければ哲学を学ぶことができないという、ある種外国語の文献を読むような敷居の高さが生じてしまいました。こういった流れから、哲学が、言語を弄する特別な知的遊戯であるかのように看做されている部分があります。これが近年の日本における哲学の実態だと思います。

でも、それはあまりに勿体無いと思うのです。

文学ひとすじだった私が哲学科に進学した理由は、「これからの時代を生き抜くために、また別の角度からのアプローチも大切かもしれない」となにやら思い込んだからです。特定の哲学者に興味があったわけでも、特定の思想に興味があったわけでもない、ただ「『哲学する』って今後すごく大事になってくるんじゃないか」と思っただけ(これが一番正しいかも)。そして時にはちょっと煙たくもあったこの「哲学」と、時折翻弄されながらもどうにかこうにか取り組んでみた学生時代。哲学から離れて随分たちますが、今思うのは、この「哲学する」姿勢がこんなに必要な時代がくるなんて、ということです。自分の頭で考える。考え抜く。それが今の時代において、幾分なりとも自分を信じることに繋がるのだと、あらためて実感しています。

コーヒーやビール片手に、普段つきつめて考えないようなテーマについて、カフェで誰かと話してみる、日曜の午後。

私が持っている哲学カフェのイメージは「『街場』の哲学」です。「そもそもさ、『とも』ってなんだろうね?」「僕が思うには・・・」「それもあるね。でもそれってサ・・・」というような、学生時代の延長のような感じでしょうか。便宜的に「哲学」という言葉を使ってはいますが、さして重要ではありません。だってこの哲学カフェ、なにも哲学書を読もうとか、特定の思想について学ぼうということではないのですから(将来的にそういう試みも面白いとは思っていますが)。哲学の知識や、難しい言葉など一切必要ありません。あなたの持つ日常の言葉で語り交わす場所なのです。その結果、もしかしたらはじめて出会う自分自身がいるかもしれません。知っていたと思っていた相手を知らなかったことがわかるかもしれません。その差異の発見、及び容認が、たぶん哲学カフェの醍醐味なのかもしれません(と想像しています)。

哲学的に考えるって、こんなに気軽なものだったんだ。こんなに面白いことだったんだ。そんなふうに思ってもらえるような場にしたいと思います。

あなたにとって、この哲学カフェがなにかの扉になれば嬉しいです。

sameshima

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